ANMELDEN車椅子の車輪が、絨毯の上で止まる。黒い仮面の奥の目が、私ではなく端末を見ていた。
記録用カメラのランプが、机の端で小さく光っていた。「続けられますか」 大丈夫か、とは聞かなかった。 その聞き方が、少しだけありがたかった。「続けます」 私は通信先の履歴を開いた。 ゲスト用ネットワークから外へ出た通信は、途中で複数の中継を挟んでいた。無料の匿名化サービスではない。企業向けのリモート保守サーバを踏み台にしている。「これ、素人の仕事じゃありません」 深町さんの声が低くなる。「ただの外部スタッフが、ここまで準備したとは考えにくいです」「誘導されたんですね」 私が言うと、高瀬さんが記録を取りながら目を上げた。「可能性は高いです。朝霧様、断定はまだ避けましょう」「断定しません」 断定しない。 三年前、誰もそれをしてくれなかった。だから、今は私が自分に言い聞かせる。 画面の白さが目に痛い。通信受付で香典袋を差し出す。 白い封筒の隅に、見覚えのある紋があった。 その紋を見た瞬間、受付台のざわめきが遠のいた。 守り袋の裏にあった、あの刺繍に似ている。 男が顔を上げた。 視線が、まっすぐ私へ向かう。 知らない人のはずだった。 知らないはずなのに、足が一歩も動かなかった。 律の手が、車椅子の肘掛けに置かれる。 相良さんの表情が消えた。 男は、ゆっくり歩いてきた。「如月静江様には、昔、一度だけお世話になりました」 声は丁寧だった。 丁寧すぎて、かえって息が詰まる。 隆一が慌てて近づいた。「九条様。まさか、ご弔問いただけるとは」 九条。 その二文字を聞いた瞬間、胸の奥が冷えた。 男は隆一に軽く頷き、けれど視線は私から動かさなかった。「こちらの方は」 隆一が答えるより先に、律が言った。「朝霧栞さんです」 男の目が、細くなる。 それは笑みではなかった。「朝霧」 ゆっくり、確かめるように繰り返す。「そうですか」 私は何も言わなかった。 言葉を返したら、何かを掴まれそうだった。 男は一歩だけ近づいた。 焼香の匂いと、濡れたコートの匂いが混ざる。「よく、似ていらっしゃる」 誰に、とは言わなかった。 焼香の列のざわめきがふっと薄くなった。 私はバッグの奥の守り袋を意識した。 男の視線は、私の顔から離れない。「失礼。初対面で言うことじゃありませんでしたね」 そう言って、男は名刺を差し出した。 九条康生。 白い名刺の文字が、やけに濃く見えた。 受け取るか迷った瞬間、律が低く言った。「弔問の場です。名刺交換は、後日に」 康生の指が止まる。 ほんの一拍。 それから、名刺はゆっくり引っ込められた。「榊様は、相変わらず慎重でいらっしゃる」「
言葉はそこで止まった。 正しいとも、よく言ったとも言わない。 私は前を向いた。 祭壇には、祖母の写真が飾られていた。 病室で見た顔より少し若い。白い髪をきちんと結い、背筋を伸ばしている。私が如月家にいた頃、よく叱られた時の顔に近かった。 お焼香が始まる。 隆一、琴美、未央。 未央は泣きながら立ち上がった。動きがきれいだった。誰が見ても、悲しむ孫に見える。 香をつまむ指も、涙を拭う手も、少しも乱れない。 私はその後ろ姿を見ていた。 未央は振り返らない。 ただ、親族席へ戻る時、私の隣に置かれた律の名札を見た。 顔が小さく歪む。 悲劇の孫でいるための場所に、私が座っている。 それが未央には耐えられないのだと、分かった。 私の番が来た。 足元が頼りない。 律が動こうとした気配があった。 でも、手は伸びてこなかった。 私は一人で立ち上がる。 焼香台の前に進むと、抹香の粒が小さな山になっていた。 端をつまむ。 軽い。 こんなに軽いものを落とすだけで、人は別れを形にしようとする。 香炉へ落とした瞬間、白い煙が細く上がった。 祖母の写真を見た。 栞は栞でいい。 もう声は聞こえない。私は写真の前で、しばらく頭を上げられなかった。 席へ戻る途中、琴美と目が合った。 琴美は泣いていた。けれど、私が近づくとハンカチを握る手が止まる。「栞……」 名前だけだった。 私は立ち止まった。「今日は、祖母を送る日です」 琴美の唇が震えた。「それ以外の話は、後日にしてください」 焼香の列がいったん途切れ、受付係が香典帳の頁を整えた。 優しくは言えなかった。 でも、乱暴にも言わなかった。 琴美はゆっくり頷いた。 未央がその横で、ハンカチを強く握った。「お母様、今は…&hel
「待ってください」 声を上げたのは、未央ではなかった。 隆一の弟にあたるという男性だった。名前は、顔だけを何度か見たことがある。三年前、私が追い出される時には、何も言わずに廊下の奥から見ていた人だ。「その席は親族席だろう。彼女はもう如月じゃないはずだ」 その言葉を受けて、親族の何人かがこちらを見る。 琴美が小さく息を呑んだ。 隆一は祭壇の前で僧侶と話していたが、その声に振り向いた。 私は、札の上の自分の名前を見た。 朝霧栞。 如月ではない。 それは私が選んだことだ。「ええ」 私は答えた。「如月家の人間じゃありません。もう」 ざわめきが広がる。 未央の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。 私は続けた。「でも、静江さんに最後まで名前を呼んでもらった者です。今日ここにいる理由は、それで足ります」 男性の眉が動いた。「生意気なことを。育ててもらった恩も忘れて」「育ててもらった」という言葉に、昔の癖で肩がこわばった。 育ててもらった。 その言葉は、昔なら逃げ場を塞ぐ縄だった。 でも今日は、少し違った。「恩を忘れてないから、来ました」 私は声を落とした。「売られた記憶まで、恩にはできません」 周囲のざわめきが引いた。 言いすぎたかもしれない。 けれど、言った後の後悔はなかった。 隆一の顔が灰色に近くなる。琴美が口元を押さえた。未央は、一瞬だけ泣く顔を忘れた。 その時、車椅子の小さな車輪の音が聞こえた。 律が、式場の入口から入ってきた。 今日も黒い仮面をつけている。 黒い喪服に黒いネクタイ。顔の半分を覆う黒い仮面。けれど会場の誰もすぐには声を出せなかった。噂の怪物当主としてではなく、榊グループの当主としてそこにいる。その事実が、場のざわめきを飲み込んだ。 律は私の隣で車椅子を止めた。「お話の途中、失礼します」 声は短く、しかし場を遮るには十分だ
焼香の匂いは、病院の消毒液よりもずっと柔らかいはずだった。 葬儀場の厚い絨毯が、靴音を吸い込んだ。 それなのに、息の奥に残ったまま離れなかった。 黒いワンピースの袖口を、私は膝の上で一度だけ摘まんだ。布は新しい。榊家の者が昨夜のうちに用意してくれたものだ。サイズは合っていた。動きにくくもない。 けれど、喪服の黒は、体に馴染むまで少し時間がかかる。 葬儀場の控室には、親族用の白い札が並んでいた。 如月隆一。 如月琴美。 如月未央。 その列の端に、一つだけ違う札が置かれている。 朝霧栞。 隣には、榊律。 札の前で、足が止まった。 如月の列から外されている。けれど、弔問客の端に追いやられているわけでもない。白い札は、親族席の一角に置かれていた。 誰かが決めた席順だ。 たぶん、律だ。「位置を変えますか」 背後から相良さんの声がした。 いつも通り静かな声だったが、今日はわずかに低い。喪服の黒いネクタイがきちんと結ばれている。相良さんは、手にした進行表を胸の前で伏せていた。「いえ。ただ、少し驚いただけです」「……でも、助かります」 相良さんの目が、下がった。「では、そのままご案内いたします」 私は頷いた。 葬儀場の廊下は、昨日の雨をまだ少し残していた。参列者の傘袋から落ちた水が、床の端に薄く伸びている。足を滑らせないよう、ゆっくり歩いた。 式場の入口に近づくにつれて、声が増えた。 親族の小さな挨拶。受付で名前を書く音。香典袋を差し出す時の紙の擦れ。誰かがすすり泣く声。 その中に、未央の声があった。「祖母は、最後まで家族のことを心配してたんです」 涙を含ませた、よく通る声だった。 私は足を止めなかった。「ずっと、私たちを見守ってくれていて……本当に、優しい祖母でした」 受付脇で、未央が親族らしき年配の女性にハンカチを押し当てている。喪服姿は
そして、静かに時刻を告げた。 祖母の手は、まだ温かかった。 それが、いちばん残酷だった。「……おばあさま」 呼んでも、返事はなかった。 私は泣き声を出さなかった。 声を出したら、手を離してしまいそうだった。 白い壁に、午後の光が薄く広がっていた。 琴美が崩れるように椅子へ座り込む。隆一はベッドの足元に立ったまま、唇を動かしていた。何か言おうとして、何も出てこない顔だった。 律は、扉の外にいた。 約束通り、入ってこなかった。 私はゆっくり祖母の手をシーツの上へ戻した。 指を離すまで、何度もためらった。 田辺さんが、白い布を用意する。 その布が祖母の顔へ近づき、私は反射的に声を上げた。「待って。まだ、隠さないで」 声が出た。 みんなが私を見る。 私はバッグから守り袋を取り出した。保全袋の中に入れたままだから、直接は触れない。けれど、その色だけは祖母にも見えると思った。「これを、見つけました」 祖母にはもう見えない。 それでも、私は言った。「ちゃんと、取り戻しました」 田辺さんが視線を落とした。 琴美がまた泣いた。 隆一は何も言わなかった。言えなかったのかもしれない。 白い布が、祖母の顔に静かにかけられた。 病室の時計だけが、変わらず進んでいた。 廊下へ出ると、足元が少し沈むような感覚がした。 律がそこにいた。「朝霧さん」 その声を聞いて初めて、病室の外へ出たのだと分かった。「……泣けないんです」 口にすると、自分でも驚くほど平らな声だった。 律は答えるまでに間があった。「今じゃなくても、いいでしょう」「……あとからでも?」「さあ。あとから来るかもしれないし、来ないかもしれません」 それ以上の言葉はなかった。 背中に、壁の
なのに今聞くと、初めての言葉みたいに胸へ沈んだ。 廊下の向こうでワゴンの車輪が鳴り、消毒液の匂いが病室の隙間へ薄く流れ込んできた。「誰が何を言っても。血がどうでも。家の名前がどうでも」 祖母の指が、私の手の中で少し動いた。「誰かの代わりじゃない」 祖母の手を包む指に、力が入った。「……おばあさま」「隆一には、負けなくていい」 その名前だけが、酸素の音の中にはっきり残った。 祖母は目を開けなかった。「会社のため、家のため。あの子はずっと、そう言ってきた。でもね、栞」 酸素の音が大きくなる。「……人を使ってまで残すものじゃないよ。家なんて」 扉の外で、何かが小さく動いた気配がした。 田辺さんが振り返る。ガラス窓の向こうに、隆一の影が見えた。琴美もいる。いつ来たのか分からない。 祖母の声が、もう一度細くなる。「戻らなくていい」 私は祖母の手を握ったまま、頷いた。「戻りません」「でも、恨みだけで、生きないで」 握っていた祖母の手が、急に重く感じられた。 祖母は、私の痛いところをいつも一度で当てる。「腹が立つなら、腹を立ててなさい。泣きたいなら泣けばいい。でもね……それだけで終わらないで」 私は何も言えなかった。 涙が落ちる。 手の甲に当たって、祖母の皮膚を濡らした。「ごめんなさい」 なぜ謝ったのか、自分でも分からなかった。 会いに来るのが遅かったこと。 もっと早く守り袋を取り戻せなかったこと。 祖母の知っていることを、今この場で全部聞きたいと思っていること。 どれも、たぶん本当だった。「謝るのは、私の方」 祖母が言う。「それから……」 田辺さんが少し身を乗り出した。 祖母の呼吸が浅くなっている。「封筒を、預けてあるの。田
「律様、お時間です」 低い声が、扉の外から響いた。 広い執務室の奥で、榊律は窓の外に背を向けて座っていた。 机の上には、如月家に関する調査資料が並んでいる。 その一番上に、朝霧栞の写真があった。 コンビニの制服姿で、視線を逸らすように横を向いている。ひどく疲れた顔をしているのに、背筋だけは真っ直ぐだった。 律は写真の端に指を置いた。 三年前の豪雨の夜。 高架下で膝を抱えていた少女の横顔を、彼は覚えている。 名前を名乗ることも、声をかけることもできなかった。 ただ傘を差し出した。 そのあと彼女がどこへ消えたのかを、ずっと探していた。 「やっと、見つけ
司は廊下の壁際に立ち、こちらを見ていた。 三年前より少し痩せたように見える。 けれど、きちんと整えられた髪も、上質なスーツも、昔と同じだった。 何も変わっていない。 そう思ったのに、胸の奥だけが一瞬、昔の痛みを覚えてしまった。 「栞……」 呼ばれた名が、廊下に落ちる。 私は足を止めなかった。 「話があるんだ」 司が一歩踏み出す。 その指先が、私の袖をかすめた。 反射的に振り払った。乾いた音が、静かな廊下に響く。 「今、あなたと話すことはありません。私は如月家の人間でも、あなたの婚約者でもありません」 司の顔がこわばった。 「栞、俺は……」 「
病院の個室には、消毒液の匂いと、心電図の小さな音が満ちていた。 ベッドの上の静江さんは、記憶の中の人よりずっと小さくなっていた。 頬は痩せ、手の甲には細い血管が浮いている。酸素マスクの下で、唇だけがかすかに動いた。 「静江さん」 名前を呼ぶと、まぶたが震えた。 ゆっくり開いた目が、私を捉える。 濁りかけた瞳の奥に、ほんの少しだけ昔の光が戻った。 骨ばった手が、シーツの上を探るように動く。点滴のチューブが、白い布団の上でかすかに揺れた。 私は慌てて、その手を両手で包み込んだ。 驚くほど冷たい。 それなのに、弱い指先が私の手を握り返した。 「し……お……り
午前二時過ぎ。 私を捨てた父が、コンビニのレジの前に立っていた。 「栞、少し付き合え」 自動ドアが閉じる。外の湿った夜気が途切れ、店内には揚げ物の油と、温めすぎたおでんの匂いだけが残った。 夜勤の店員は私一人。レジ横のホットスナックケースが、じり、と小さく音を立てている。 如月隆一。 如月グループの代表で、かつて私が父と呼んでいた人。 三年前、私を家から追い出した男だ。 私はバーコードリーダーを静かに置いた。薄い手袋越しの指先が震えている。それが、何より腹立たしかった。 「……何の御用ですか」 「話がある」 「申し訳ありません。雑誌と公共料金のお支払いでし







